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上野夕子の波乱万丈

「共感自分史アニメストーリー」

​私はよく「苦労知らずのお嬢様」のように思われるのですが

実際には「努力と忍耐」の時間が長かったです。

まだ人生の一部しかだしてませんが、よろしかったら感想を聞かせてくださいね。


この動画の手法は2013年からアメリカで大人気の「ドローマイライフ」または

「ホワイトボードアニメーション」と言われる方法です。

上野夕子の波乱万丈「自分史アニメストーリー」を文字で読みたい方への書き起こし文

私、上野夕子は1960年に神奈川で、働き者の母と、社交的な父の間に生まれて、姉が7人、兄が1人の9人兄弟の末っ子です。

 

子供のときは、近所の子やいとこたちと外で遊ぶ活発な子で、母が大好きで買い物にいつもついていき、「母のためなら死ねる」と子供心に思ってました。

 

私の8人の姉や兄は、みな学業や運動能力が優秀でしたが、短気な人が多く、やんちゃな私はいつも姉たちに怒られてました。

 

 

母の父、つまり私の祖父は、一代で莫大な財産を築き、地元の名士と言われ、長女の母も結婚するまで父親の右腕となって一緒に働いていました。

 

ですが、祖父が亡くなったときに、欲がない母は、祖父の死を悲しむあまり、遺産を放棄してしまい、兄弟の中で一番貧しくなりました。

 

 

他の8人の兄弟たちはおじいちゃんからもらった遺産でマンションや家や店を建て、豊かに過ごしましたが、遺産をもらわなかった母は、懸命に働いてアパートや家や店を建て、そこで母は洋品店を営み、父は理容店を営なみました。

 

 

私は小学時代、いじめにあい、一人で泣いて帰ったこともあり、登校拒否もしてました。

 

家ではやんちゃないたずらっ子なのに、学校ではいじめられても何も言えない自分が嫌でした。

 

でも、中学になるとなぜか人気がでて、ファンクラブもできるほどでした。

 

推理小説やSF小説が好きで、中学の図書室では学校で一番、本を借りていました。

 

 

中学2年のとき、たった一人の優しい兄が交通事故のショックから精神を患って、自殺してしまい、それからは命とはなにかを考えるようになりました。

 

 

私が19才のとき、人生で一番悲しいショックな出来事が起こりました。

大好きな母が、まだ58才なのに亡くなったのです。

 

我慢強く、働き者で、体力に自信があった母は、病院に行かなかったので、がんが全身に進行していて、たった2週間の入院で亡くなってしまいました。

 

お母さんは9人の子供を育てながら、多いときは10人もいた理容師の食事のせわもし、アパートや店の経営で忙しく働く、努力家で頑張りやで、どんなときも愚痴や文句を言わない観音様のような人でした。

 

 

母が亡くなってからは、5番目の姉が母の遺産を一人で相続しました。

 

母の洋品店は、姉が紳士服店に変えていて、高校を卒業するとそこで働く決まりでしたが、休みはほとんどなく、朝9時から夜9時まで働いてもお小遣い程度しかもらえませんでした。

 

その上、門限も厳しく、男女交際も禁止、外泊も禁止で、暗い青春時代でしたが、家のために頑張れば、必ず良いことがあると信じて、15年間一生懸命に働きました。

 

 

私は、向上心や好奇心が旺盛で、書道や心理学や自己成長法や英会話など、いろいろなものを常に学んでいて、お客さんがいないときは、店でいつも本を読んでました。

 

 

年頃になると見合い結婚をする姉たちに夢も希望も持てなくて、やりたいことを我慢して過ごしているうちに、肩こり、頭痛、胃腸の不具合、爪が剥がれるなどして、体や心のあちこちが悲鳴を上げるようになりました。

 

もう限界でした。

私が33才のとき一大決心をして、家族の反対を押し切り、自分の夢と希望を探すためにオーストラリアへ一人で旅立ちました。

 

1泊1,000円くらいのバックパッカーの宿で自炊しながら、シドニーやメルボルン、タスマニア、パースなどを一人で周って、いろいろな人種と交流しながらオーストラリアの大自然を堪能し、素晴らしい経験をしましたが、自分のやりたいことがわからないまま3ヶ月後に帰国しました。

 

 

家出状態で、姉たちに「もう家には帰るな」と言われてたので、安く泊まれる外人ハウスという、1軒家に何人もが一緒に住む、今で言うシェアハウスを探しました。

 

3畳の部屋に2段ベッドの相部屋でしたが、狭くても、家がなくても、お金がなくても、仕事を選ぶ自由があったので、すごく幸せを感じました。

 

私のルームメイトは、インドネシア女性でしたが、他にも、イギリス人、カナダ人、アメリカ人などいろいろな国民性に触れて、自分の夢を探しつつ、希望と不安が入り混じりながら過ごしました。

 

 

しばらくして、整体療術スクールに就職しましたが、ある日、大手のスピリチュアル会社を経営する望月俊孝さんにヘッドハンティングされて、そこに転職することになりました。

 

実家にいたときは、成績優秀な姉たちの中で、私だけが成績が悪く、家の仕事でもミスばかりするので怒られてばかりで、勉強も仕事もダメな私は劣等感のかたまりでした。

 

でも、実家を出た途端に、能力を発揮できるようになり、何人もの人に認めてもらえるようになったので、自分でもなぜなのか本当に不思議でしょうがなかったです。

 

たぶん、イヤでしょうがなかった実家からでることで、閉ざされていた潜在能力が開放されたのでしょう。

 

 

私は、十代のころから書道や気功や瞑想、内観法、催眠療法、成功法則などを学んでましたが、特に心理学は好きで、アメリカ人心理学者や望月俊孝さんから体験型セラピーや心の開放を学び、ビジョン心理学で有名なカナダ人のクリストファームーンからも直接学びました。

 

 

36才の時、今の夫、上野正春と結婚し、結婚後は関西と東京を仕事で行ったり来たりして、土日はセミナー、平日はパソコン作業の日々を送っていました。

 

昔から体力がなく疲れやすかった私ですが、夫の運営するヒーリングスクールで、レイキやプラーナや整体などの健康法を実践したお陰で、ハードな日々を健康に過ごせたのです。

 

 

私は、夫の経営するスピリチュアルスクールの裏方としてITやマーケティング全般を請け負い、教材を作ったり、DMを作って発送したり、広告を出したり、書籍を出版したり、ホームページやブログやパワーストーンのネットショップを作ったり、ネット広告やSEO対策をしたり、メルマガをだしたり、Kindleで電子書籍を出版したり、Facebookやインスタグラム、LINEなど、さまざまな事を誰にも習わず試行錯誤しながらやってきました。

 

そして、時代とともに通学セミナーからオンライン講座に変わっていき、教材もPDFやDVDやネット動画配信になり、動画の撮影から編集から製品化まで、四苦八苦してやりました。

 

そのお陰で年間500万円以上の費用が節約できたと言われ、その分で、海外旅行にもたくさん行けました。

 

夫と、インドの病院にアーユルヴェーダ留学に行ったのを皮切りに、オーストラリア、トルコ、ギリシャ、イギリス、スリランカ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、台湾、韓国、ハワイ、サイパン、タイなどに忙しい合間をぬって行きました。

 

私はこうして20年以上もの間、すごい努力と苦労をしてパソコンと向き合ってきましたが、あなたには、一人で悶々としたり、つらくて大変な思いをしてほしくないのです。

 

そこで、一人でがんばっていらっしゃる癒し系、スピリチュアル系の事業家の方の「仕事の繁栄」と「こころ」のサポートと「仲間の絆づくり」を、あなたをあたたかく照らす太陽のような存在となって、あなたが幸せなお金もちになるようお手伝いさせていただきます。

 

パソコン作業というのは大変ですが、できたときの達成感や充実感もありますし、また、やれたことで自信がついたり、やりがいもあります。

 

あなたのお仕事を元気にしながら、心理学、ヒプノセラピーで癒し、強化し、生涯付き合える素敵な仲間と、素晴らしいお客様に囲まれて、幸せなお金持ちになりたい方はぜひ来てください。

私の理念・使命

 一人でがんばる事業家の方と、私や仲間とともに幸せなお金持ちになり、

 日本の幸せ波動を高めて、幸福度を上げたい。